2009年度(第9回 受賞論文)

第9回 徳川宗賢賞受賞論文(2009年度)

優秀賞

「記憶モデルによる敬語意識の変化予測」
『社会言語科学』

第11巻 第1号 64頁-75頁
横山 詔一・朝日 祥之・真田 治子

「危機言語記録保存と言語復興の統合へ向けて」
『社会言語科学』

第11巻 第2号 15頁-27頁
パトリック ハインリッヒ・杉田 優子

萌芽賞

該当なし

受賞理由

優秀賞

「記憶モデルによる敬語意識の変化予測」
横山 詔一・朝日 祥之・真田 治子

本論文は,国立国語研究所が愛知県岡崎市で定点観測的に実施している敬語使用と敬語意識の経年調査のデータを扱って,敬語使用意識の過 去の変化状況に基づいて現在ないし将来の状況を予測することを論の中心軸としている.言語や言語意識の変化研究が,従来,基本的にはすでに起きた変化を跡 付ける姿勢で様々に展開されている中,本論文は,理論的枠組みや分析手法の面で実証的かつ創造的な態度を堅持しつつ,変化の将来予測という言語研究で本格 的には議論されてきていない領域を切り拓くものと評価できる.
こうした論の中心軸を支える分析手法として,本論文は,ロジスティック回帰分析,多変量S字カーブ解析など を意欲的に導入したり,記憶理論を参照しつつ「形成期記憶」「生涯記憶」の概念を提案して生年や調査実施年等の調査データの新たな解釈の可能性を提示した りしている.これらは,医学,心理学,記憶理論等の他分野の成果や方法を分野横断的に言語変化研究に適用しつつ,そうした理論や方法自体の洗練に貢献する ものともなっていると認められる.この点で,本論文は,トランス・ディシプリンを旨とする本学会や徳川賞の趣意に合致する.また,本論文の達成は,著者た ちの先行研究(横山・真田2007等)の蓄積の上に立っており,試行的・萌芽的な段階を越えた本格的なものと認められ,徳川賞優秀賞にふさわしいと評価で きる.

「危機言語記録保存と言語復興の統合へ向けて」
パトリック ハインリッヒ・杉田 優子

本論文で扱っている「危機言語記録保存と言語復興の統合」というテーマは,地球規模の人の流動化の中で世界の多くの言語が危機に瀕している今,ウェルフェアリングイスティクスの観点から考えて,避けては通れない喫緊の課題ともいえる.
本論文は,この課題に対して,まず,近年の諸研究を丁寧に検討しながら,言語観のシフト(「システムとしての言語」→「実践としての 言語」),方法論上のシフト(記述言語学→相互行為言語学),理論・実践上での焦点のシフト(単一言語社会→多言語社会)という3つのシフトについて理論 的考察を行っている.そして,言語記録保存の方法に関する提言(条件提示)を行いながら,最終的に,言語記録保存と言語復興という現状では全く個別の領域 を結び付けられるような統合的アプローチの可能性について展望した論文である.
上記の3つのシフトに関しては,論者がよりわかりやすく図2「言語復興のための言語記録保存」(24頁)の 中で示しているが,これらのシフトを包括的に捉えた上での「危機言語のフィールドワーク」の推進へ向けた提案は注目に値する.なお,このフィールドワーク においては「言語記録保存はコミュニティのニーズや期待を考慮したものでなければならず,~中略~この部分がなければ,言語記録保存と言語復興をリンクす ることは不可能である」(24頁)という考え方を基盤としている.その意味で,このフィールドワークの姿勢は,「人々の実践としての言語」の記録保存を大 切にしていることが窺える.さらに,目標として「理論の専門家がフィールドに関わり,またフィールドの専門家が理論の構築に参与していけるような枠組みに 関する議論展開」を掲げている.この在り方は,これまで社会言語学の立場から危機言語研究を批判してきた研究者の大半が実際にフィールドワークに関わって いなかったという経緯を踏まえると,理論と実践を結び付け,統合を図ろうとする新たな展開といえる.
また,この統合的なフィールドワークは,言語生態系の整備に向けて,言語間の競争ではなく,協調的構造を創 造していこうとする超領域的な共同研究の試みであり,危機言語研究の新たな地平を拓こうとするものである.その意味で,ウェルフェアリングイスティクスの 観点からも大いに評価できる.今後は,日本の危機に瀕した少数言語を中心に,地域(コミュニティ)の関心に応じて,より具体的な言語記録保存方法を実際に 提案していくことが期待されよう.
これらの理由により,本論文は徳川宗賢賞優秀賞にふさわしいものである.

徳川賞を受賞して

横山詔一・朝日祥之・真田治子

 名古屋駅から30分ほど名鉄線にゆられて岡崎市の中心部に近づくと,おだやかな川のほとりの緑濃い丘にそびえる天守閣が 目に飛び込んできます.家康公はその岡崎城で誕生しました.徳川家発祥の地における調査で徳川賞を授かったことについて,なによりも調査に御協力くださっ た岡崎市の皆様に心からお礼を申し上げます.また,別の歴史的側面からは,家康公と真田幸村とのかかわりが,時代を超えて学術という平和な世界でふたたび 焦点を結んだという縁を感じます(私たちの一人は幸村公の家系).
 この研究は国立国語研究所の50年間以上にわたる経年調査の一環として実施されました.柴田武先生をはじめ,1953年 の第一次調査から2008年の第三次調査まで,心血をそそいでこられた歴代の研究メンバー全員の学恩に対して感謝を申します.また,井上史雄先生からいた だいた「山形県鶴岡市の共通語化データも多変量S字カーブで解析してはどうか」というアドバイスがたいへん励みになりました.いつもは冗談ばかりの井上先 生が,その時だけは怖いほど真剣だったことが今も眼にうかびます.

パトリック ハインリッヒ・杉田 優子

 比嘉光龍(ふぃじゃばいろん)さんをご存知でしょうか.彼はラジオ沖縄で活躍するDJ,うちなぁぐち(沖縄語)の復興活動家で す.私たちの論文は光龍さんに触発されたと言っても過言ではありません.研究者の行う研究調査活動と,地元活動家の地道な努力が,あまりにもかけ離れてい る現状をどうにかしたいという思いがありました.徳川先生のご遺志であるウェルフェアリングイスティクスは,まさにこのようなギャップを埋めようとするも のであると考えます.徳川先生ゆかりの賞をいただくことは,筆者の私たちにとって大きな励みとなるばかりではありません.新たな観点に基づく危機言語研 究,復興活動の必要性が確認されたことで,将来光龍さんたちのような活動家,地域コミュニティとの連携の重要さも認識される大切な機会を得たと言えます. 今回の受賞を契機に,一人でも多くの方が,復興活動へ向けた言語記録保存に関心を持ち,新たな研究の枠組みに関する議論,実践に参加してくださるようにな れば幸いです.