第24回 徳川宗賢賞受賞論文(2024年度)
優秀賞
「言語変化における統治性と権力―「フィジー手話」の構築をめぐる事例から―」
第26巻1号, pp.94-109.
- 佐野文哉
- (人間文化研究機構/京都大学)
萌芽賞
「移動の語りと自己アイデンティティ―空間・時間・人間像のクロノトポス的表象に注目して―」
第26巻1号, pp.149-164.
- 李址遠
- (大阪教育大学(掲載時*))
- 受賞時の所属:お茶の水女子大学
萌芽賞
「Parental Enactment During Shared Book Reading in Japan」
第26巻1号, pp.181-196.
- 尾﨑萌子
- (慶應義塾大学)
授賞理由
優秀賞
佐野文哉
「言語変化における統治性と権力―「フィジー手話」の構築をめぐる事例から―」
第26巻1号, pp.94-109.
本論文は,フィジー手話の歴史的形成と現代的な変化を「統治性」という観点から詳細に分析し,少数言語の存立に影響を与える社会的・文化的・政治的権力構造を浮き彫りにした.
本論は言語と権力の関係を探る社会言語学の伝統を継承しつつ,手話という音声言語とは異なる形態を取る言語を対象とした点で,新たな地平を切り開いた.フィジー手話の構築過程では,多様なアクターが複雑に関与しており,フーコーの「統治性」理論に基づき,それぞれの「統治的権力」がどのように作用したかを丹念に論じている.特に,手話の「DEAF LANGUAGE」化がいかに国際的な言語イデオロギーや国内のろう者コミュニティ内の力学によって推進されているかを明らかにした点は,言語が動的に構築される過程を実証的に示した貴重な成果である.
フィジーというローカルな文脈に根ざしつつも,統治性や言語イデオロギーといった普遍的な理論的枠組みを適用することで,少数言語研究や手話言語学に新たな視座を提供することに成功している.特に,言語と主体の動的な構築を検討する過程で,少数者のエンパワメントと社会的制約との相互作用を捉えた点は,他の少数言語やコミュニティの研究にも応用可能な普遍性を持つと考えられる.
ろう者の言語的実践とそれを取り巻く権力関係に注目することで,「少数者の声」と「主流社会の力学」の交錯を理解する糸口を提供し,手話言語への理解を深める契機を与えるという一般社会に対して持つ価値も高い.
以上の理由により徳川宗賢賞にふさわしい論文であると判断された.
萌芽賞
李址遠
「移動の語りと自己アイデンティティ―空間・時間・人間像のクロノトポス的表象に注目して―」
第26巻1号, pp.149-164.
本論文は,移動とアイデンティティという問題を考察したものである.Bakhtinが提示した「クロノトポス」(chronotope)(字義的に「時空間」を意味する概念)に依拠し,移民第二世代オーストラリア人男性の語りを分析することにより,移動の経験がアイデンティティの構築にいかに関わるかを探究しようとしている.オーストラリア国内の場所と移動の関わる語りを対象に分析を行い,場所の描写と,それにまつわるストーリーの双方に注目し,クロノトポスに媒介された移動の意味づけとアイデンティティの構築・呈示の過程を明らかにしている.
世界的規模での人・物・情報の移動が常態化し,超多様化の社会や文化・ひと・ことばの関係もより複雑になる中で,移動は社会言語学,そして現代社会にとってキータームの1つである.そうした移動とアイデンティティという今日的なテーマに取り組み,現代の多文化主義が抱える課題の一端を示唆している点で,本論文の社会的意義は大きい.また,日本の社会言語学ではまだ十分に導入されていない「クロノトポス」という概念を用いて,移動とアイデンティティを考察し,新たな知見を得た学際的な研究であり,その学術的意義も非常に大きい.以上のように,本学会が目指すウェルフェア・リングイスティックス,トランスディシプナリーな研究の理念からも高く評価でき,今後の研究発展が期待できるものである.こうした理由により徳川宗賢賞萌芽賞にふさわしい論文であると判断された.
萌芽賞
尾﨑萌子
「Parental Enactment During Shared Book Reading in Japan」
第26巻1号, pp.181-196.
本論文は,日本の0歳2ヶ月から4歳11ヶ月の年齢層の幼児とその親105組の絵本の読み聞かせ場面の録画データを収集し,親の「なりきり発話(enactment)」の量的・質的分析を行うことにより,なりきり発話の使用の実態と発達的変化を捉えることに成功している.
親が絵本の登場人物(キャラクター)になりきって独自に産出したなりきり発話を数量化・コード化し,その内容が「行為」「感覚」「会話」のいずれかを演じるものであること,および,親のなりきり発話は子どもの年齢が上がるにつれて減少していることを明らかにしている.また,質的分析を通して,子どもが低年齢の時期はキャラクターの感情や行為を強調するなりきり発話が多く,年長になると社会的習慣として特定の場面で用いられる定型発話(「ごちそうさま」など)のなりきり発話が増えることを見出している.これらの分析結果を踏まえ,日本の親は,絵本の読み聞かせ活動におけるなりきり発話を通して幼児期初期から共感性の発達を促し,子どもが2〜3歳で言語的に発達してくると社会的習慣としての定型発話の習熟に志向した「なりきり発話」を用い,さらに,そうした「足場(scaffolding)」が不要となる5歳頃には「なりきり発話」を使用しなくなるという結論が導かれている.
以上のように,本論文は,量的分析と質的分析を適切に組み合わせた緻密な分析を通して,日本の養育者が絵本の読み聞かせ場面で用いる「なりきり発話」の言語社会化における位置付けと役割を説得的に明らかにした貴重な研究であり,また,他の絵本を用いた場合や他の言語文化圏との比較など,豊かな発展可能性も含む優れた論文である.よって,本論文は徳川宗賢賞萌芽賞にふさわしい論文であると判断された.
徳川宗賢賞を受賞して
佐野文哉
このたびは大変名誉ある賞を賜り誠にありがとうございます.
あらためまして,私の論文に丁寧にコメントをつけてくださった査読者および担当編集委員の方々にお礼申し上げます.
私はこれまで文化人類学者としてフィジーのろう者や手話に関する研究に従事してきました.本論文は,現地調査を行なうなかで感じた,「知」を背景とする言説を含む,さまざまな統治性の影響について,自己反省の意味も込めて分析しようと考えて執筆したものです.「主流」からは大きく外れた本論文を評価していただき,心から感謝いたします.
さまざまな研究領域の“あわい”で,日々不安にさいなまれながら研究を行なってきた私にとって,今回の思いがけない受賞は大きな励みになったと同時に,身に余る栄誉に,身が引き締まる思いを感じております.今後は受賞に恥じぬよう一層精進してまいります.
さいごに,今回の受賞は,なによりも,「他者」であった私を受け入れてくれたフィジーのろう者と手話関係者のみなさんの優しさあってのものです.公私の環境の変化のなかで,なかなか昔のようには渡航ができなくなってしまいましたが,またフィジーに行ったときには,彼らに教えてもらったフィジー手話で受賞の報告とお礼を伝えたいと思います.
李址遠
私は長い間,「自分は何のために研究をするのか」という問いに明確な答えを見いだせずにいました.その答えがようやく見えてきたのは,日本人の妻との間に息子が生まれたときでした.「父親が韓国人であることで,いじめや不当な差別を受けるのではないか」という不安を抱いたとき,自分にできることを改めて考えさせてくれたのが,社会記号論という思想でした.人々が言語を用いたコミュニケーションを通していかに自己・他者・世界を作り上げているかを反省的に理解することが,世界をより良い方向へと変えていくための鍵になると考えました.本論文は,その思いから生まれたごく小さな成果の一つに過ぎません.
このたび,身に余る栄誉ある賞をいただき,深い感謝の念を抱くとともに,私のささやかな研究が何らかの意義を持つものとして評価されたことに,安堵と喜びを感じております.本論文の完成にあたり,多方面で支えてくださった皆様,そして貴重な経験を共有してくださったルカさんに,心より感謝申し上げます.
尾﨑萌子
この度、徳川宗賢賞萌芽賞という栄誉ある賞を賜り、大変光栄に存じます。選考委員会の先生方、本論文の査読者の先生方、そして本研究にご協力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。
本研究は、自身の子育て経験から着想を得ました。当時まだ乳児だった息子に登場人物になりきって絵本を読み聞かせる自分を不思議に思ったこと、さらに幼少期アメリカ在住時の経験を振り返り、絵本の読み聞かせ方に日米差があるのではと考えたことがきっかけです。研究を進める中で、なりきり発話の使用頻度が日本人の方が高いことが明らかになりました。また、幼少期をアメリカで過ごした私が、自分の息子に対しては「日本式」の絵本の読み聞かせ方をしていることを再認識し、これも言語社会化の興味深い一側面であると感じています。
今後は絵本に限らず、テレビやYouTubeなど他のメディアを介した親子間の会話についても研究を広げていきたいと考えております。引き続き、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。